軽井沢の気配から脱線します。
これから閑散期なので、たびたびに。
28になる年から今の席で仕事を始め、
今年の9月に40になりました。
別荘や移住で知り合えた方々とも同じに年を重ねてきて、
子供達も10歳プラスで成長しているし、
父親世代の方々も10年を経て、現役から退いて自適に
ゆとりを持ちながら軽井沢と行き来をされている姿を近く
で見ていると、年を重ねるのも悪くないな。
いい年の重ね方をしたいな。
と 思うことがしばしばです。
ボクなんぞのことを、軽井沢の息子と呼んでくれる人も。
世代を超えた友人、親友と呼んでくれる人も、
親戚やいとこと思ってくださる方もいて、幸せです。
友人知人でいてもらえることがどれだけ嬉しいことか。
感じることがありまして、
実の親子には言えない出せないことも、軽井沢にいると
何となく素直に思い言いたくなる。 があります。
そういう関係を、近いボクに求めてくれるのか、
そしてボクも、それを皆さんに求めていた所もあったかも
しれません。
40ですから、父親世代は団塊層です。
高度経済成長期を若い時代に現場で支え、
バブルとその崩壊後を前線で体験し、
家族や子供のために尽くしてきてくれた人たち。
それは、現代の子育て世代とは見えてきた世界も
時代も空気も違いますから、ズレも軋轢もでて当然です。
昭和の、と括られる頑固さなどなど、。
父は、地元のメーカーの総務人事を長く務めていて、
人を見る目見抜く目に長けていたと思います。
思春期のボクは田舎育ちではあり見聞が狭く、
地元に戻ってのサラリーマンはどうしても考えられず、
スポーツの実業団入りを密かに目指していました。
時はJリーグ元年でしたが、怪我と環境で脱落し、
能天気で楽観的だった自分が、初めて自信をなくしました。
自分が見えなくなりました。
そんな姿を見透かされているようで、若かった自分は
避けて言い訳をつくり、向き合いませんでした。
本当は衝突もして分かりあいたかったのですが、
バブル後の人事というのは当時の自分が想像しただけでも
心身に厳しく、放棄すれば楽だったでしょうに、
家族や会社を守るために死に物狂いでという言葉がハマる
ほど、食いしばっていたのだと思います。
荒れてスッキリしたほうが早かったのでしょうけれど、
迷惑と負担をかけたら家族も自分もパンクすると思い、
感情を抑え、逃げ道はけ口を探すようになりました。
随分と悶々ともしましたが、幸いにも、よい環境に育てて
もらえていたことで、割と健康的な方向で光が見えてきました。
旅と、当時はプロレスでした。
何かを目指したかった訳ではなかったですが、流されず
ブレずに今を維持するために、部活を離れてさほどたたない
頃から「腕立て腹筋スクワットとブリッジ」を毎日欠かさず
続けていました。
上京デビューというか、細マッチョで濃い顔だった自分は、
ちょっとモテましたが、どうしても流されるのがイヤで・・・
・・・違う方向に反れたので、そっちのはまた改めて(苦笑)
でも、おっさんにはなりましたがまだ身体に当時のおつりが
ついています。思春期に打ち込めてよかった。。
ええと、光とは、旅に出ることでした。
最近になってやっと自分で認められはじめましたが、
「旅に逃げること」 でした。
きっかけは、言葉や何かではなかったのですが、
父への反発の中でも、何と言うか飛び込みたい、
ルーツに触れたいと思うようになり、
当時の仕事以外で知る、唯一の父の個の面であった
「オートバイ」
から、自由への光を見いたしたく、当時は原付ながら
節目やココロに問いながら、あてもない自由旅に出る
ようになりました。
父も若い頃旅をしたり遠出をしたりしていたそうです。
自然というものは偉大でして、自分の存在も悩みも迷いも
自然界には何の影響も無い。太陽を陰る雲はこんなにも
影響があるのに、自分やそもそも人間一人の存在なんて、
という悟りに近い所まで飛躍しまして、
先を見すぎても過去を見ても仕方ない。
デキる人たちが真っ直ぐ上を目指し競争するのであれば、
自分は自分の個性を持てるまでは遠回り(当時は逃げと
認められなかったけど)しながら、必要とされるところに
行き着ければいい。そして自分と人のために楽しい仕事を
絶対にしていきたい。
と思うようになっていました。
飛び飛びですが、
高校を卒業し埼玉の寮に入り、
19の誕生日界隈に中型免許を取り、バイクを買いました。
直接は言いませんでしたが、父と走りたかったからです。
叶いました。

19のときですから、21年前。
父親が47だったのかと、40を迎えてしまうと
そんなに先ではなかったタイミングだったことを
不思議に感じます。
とともに、自分は、どうで何をしたいのかと。
息子と乗るのはまだ5歳ですから早いですが、
68となった父とは、また一緒に乗れるのかと。
63で退職し、病気等もありましたが復活している父。
何より、軽井沢で会う父と同世代の方々が心身ともに
とても若くまだまだ老け込むなんて遠く先のことと
思えていますので、
皆さんと親子に近い付き合いをさせてもらえているの
ですから、生きて元気で居るうちにそういう付き合いを
したいと。遠慮している場合じゃないと思うようになり・・
今年は少し、行動を起こしてみています。
カワサキの、
w-3 という650ccのバイクです。
1973年製、自分より3つも兄さんです。
映画にも出てきたので、上の世代の方はご存知の
方もいらっしゃるのでは。
「彼のオートバイ、彼女の島」 片岡義男
最後に一緒に走ったのはいつだったかなあ、
30の頃、父が58の頃に1,2度走ったっけなあ。
車検を取りに行った位だったかな?

重い腰をあげ、
直してもらい、一緒に乗ります。
もうちょっと乗り易い、現代のバイクもあれば
両方乗れるようになってくれるのではと、
余計な押し付けお節介を考えている所です。
自分だって、やはり乗りたい。
ただバイクがいいのでなくて、
なんかこう、好きを共感しながら継ぎたい感じ。
いつか、いなくなってしまうんだから、
何だかんだ言って、
いいとこも悪い所も影響受けているんだから、
いいとこと、いい想いは、
継いで行きたいです。
と妙に思うことが増えたので、残してみます。
明日は雪溶けの風景送ります。
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