【 茶室とにじり口 】躙口(にじりぐち)は、千利休が草庵茶室・待庵(京都・大山崎/妙喜庵に移築・再興)に設けた小さな入り口がはじまりと言われていますが、ここにも、利休特有の精神的、思想的な目的が意図的に表現されているのだそうです。
封建社会での身分の上下関係は絶対的なものでしたが、茶室に入るには誰であろうとも、低く頭を垂れて伏して入らねばなりませんので、茶室の中では、まず自分というものを一度捨て、お互いにひとりの人間として対峙します。茶室は、小宇宙、あるいは母親の胎内であるとよく言われますが、躙口(にじりぐち)から入ったら、立場を捨て、無垢なありのままの姿になれということなんです。それを、何をいわずとも、空間の所作によって教える、それが究極の空間といわれる所以です。
茶室のなかでは、亭主と客の関係や、隣席の人にすすめあい感謝の念を捧げながら、一服の茶をいただきます。利休は、この人と人とのコミュニケーションの前に、まず、人はみな平等であると、精神的なバリアフリーを、それを儀礼として茶道に盛り込むために、出入口に躙口(にじりぐち)を考案したのではないでしょうか。躙口(にじりぐち)で、いつもは威厳をふりかざす天下人たちが平伏する姿を見て、にやりとする利休の顔が目に浮かぶような気がします。
抜粋、参考にさせて頂きました。
http://www.digistyle-kyoto.com/study/culture/chashitsu/chashitsu04.htmlこのしごとを始めた頃、とある財界人の対話を雑誌で拝見しました。
軽井沢の別荘での過ごし方は、茶室のなかで過ごすそれと同じ感覚だと。
そして、碓氷峠のトンネルが、にじり口であり、
そこを抜けて降り立つ新幹線ホームからは、
都会での日常の姿を捨てた、無垢な一個人としての滞在が始まる。
というような感じの事を仰られていたと記憶しています。
ぼくの立場からは、「そうおもっていいんだ 」 と捉えさせてもらいまして、
徐々に徐々に、構えていた感覚が抜けて、自然に皆さんと今のような
お付き合いをさせてもらえるようになりました。
勿論いろんな方がいらっしゃるかと思いますし、
意識してしまえば緊張も気遣いもまだまだあるのですが、
茶室の中のような付き合いを望んでくれる方々が幸いにおおく
またそこから繋がる方々も同じ空気の方がおおくて
その場にいさせてもらっても、心地よいのです。
一歩下がってみなさんの姿を眺めてみると、
ああ、 そういう時間と繋がりを、
軽井沢に求めて下さっているのだと感じます。
こっちにいるときくらい、
日常を忘れて心身神経ゆるゆると過ごして頂きたい。
そう過ごせるための必要な姿で居ますので、
同じ空間を愉しませてくださいね。
先日、習っていたお茶の大先生(おおせんせい)が亡くなられました。
こっちに戻ってきた27の年から休みに入る35までを過ごさせて頂い
たのですが、ご高齢でしたし覚悟はありましたが、寂しいものです。
作法の技術的なものよりも精神や心構えの素の部分を教えて頂けた
ことがおおきかったです。。
まだまだヘッポコですが、出逢えて学べたことを胸に、自分の在り方と
重ねながら改めて精進してまいります。
と、ちょっと戻ろうと思いました。
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